話を聞いて、理解してほしいという我儘。

私はしょっちゅう落ち込みます。

落ち込むと言っても、ただテンションが下がるだけで済めばいいのですが、

酷いときはベッドの上から動けなかったり、数日お風呂に入れなかったりします。

 

落ち込みの原因はその時にによって様々です。

「テスト勉強が進まない」みたいな具体的な原因から、

「きっと自分は嫌われているに違いない」という(本人には確信的な)妄想や、

「自分が生きる価値のある人間とは思えない」のような哲学的で抽象的な考えまで、

落ち込んだ人間の思考は様々に演繹します。

 

まだネットに文字を打てるだけの気力があったり、

親に電話するだけの勇気があったりする場合は、

苦しさのあまり相談したりもします。

 

そんなときに

「まだ若いんだから」と、言われたとして。

 

うるせえ!だからどうした!

落ち込んでるのはその若い私だろうが!!

年齢のことで思考停止するんじゃねぇ!!!

 

……と、心の中で思うわけです。

別に年齢に限らないです。

その人が先天的に持っている努力で変えようのない属性と

(時に形而上学的概念にまで発達した)暗澹たる気分とは、

全然関係ないと思うんですが?というわけです。

ああ、この人は(場合によっては“相談乗ります!”と公言しているようなときでも)、

私のことをどうでもいいと思ってるんだろうなぁ、と感じてしまうのです。

 

この安易な決めつけも「若いねぇ。青さだ」と思われるかな?

10年後の自分が見たら「若気の至りだ」と思うかな?

 

でもまぁ、私にとっては私が感じたことが事実のすべて。

 

……ここまで考えて、果たして人は本当に誰かの考え(=世界)を変えることができるのだろうか、と思うのです。

私たちはしょっちゅう「感動しました!」「目から鱗です」「人生観が変わる」という文字列を見たり、人から聴いたりしますが、それは実際一時的なもので、人ひとりの思考回路なんて、早々簡単に変わらないんじゃないかな、変えようとしても戻る力の方が強いんじゃないかな、と思います。

 

それでいくと、私たちはずっと誰も分かり合えないまま。

だからたぶん、私はあなたを認めて、許して、そのままであることに満足しなければならないんだろうな、なんて。

 

小難しい話になってしまいました。

机上の空論、好きなんです。

 

それでは、今日もおやすみ。