動物が好きってどういうこと?
怠惰な今までの例に漏れず三日坊主宜しくしばらく更新をサボっていたら、
その間に閲覧数が凄い事になっている日があって戦慄。
年代的には悟り世代のはずだがネットには疎いので、
「何かあったんだろうなぁ」というふんわりした予想しか立てられない。
最近の20代が全員パソコンの扱いに長けていると思うなよ。
それは「日本人ならお正月に晴れ着を着て羽子板をするに違いない」
「マックが嫌いなアメリカ人が居るわけない」「女の子はみんなスイーツが好き」ぐらいのテンプレートで班を押された先入観にすぎない。
でも、もしかしたら私たちは、自動的に脳内で人物や出来事をカテゴリに分けて(つまり似た者同士を集めて)ある程度個々についての判断を簡略化する事によって、思考の効率化、省エネ化を図っているのかも知れない。
それは確かに効率的だが、全員が全員効率を第一に判断・行動すると、当然のごとくイレギュラーに対応できない。放って置かれた、或いは適切に対処できなかったイレギュラーはそして、存在自体が問題として扱われ、抑圧・淘汰される。
だから効率を考える人と個々の事情に対処する人は分けて扱われるべきだなぁ、と思うが、この辺の事を考えていたら1日では終わらないので今日はここまでにする。
本当は、もっと別のことを書く予定だった。
それは、「動物が好きって、どういうこと?」というもの。
私は昔から今まで虫が好きで、幼稚園の年少から20代の現在に至るまで、コウロギやバッタやスピードのない蝶なら手で捕まえられる。カエルだって平気で触る。花の女子大生()だがゴキブリに悲鳴をあげるくらいなら殺虫剤を振りかける。(Gに関してはもっと凄い武勇伝をお持ちの方がいっぱい居るだろう。私の限界はティッシュ越しだ)
針やら毒やらがない生き物なら、見た目が多少グロテスクでも、多分全然触れ合える自信がある。蛇もトカゲも何時間でも観察できるし、出来るなら触っていたい。動物園では小型のワニを抱っこする機会に恵まれた。怖かったがヒンヤリとして気持ちよかった。小学校の時にはゴマダラ(?)カミキリを、驚かせる目的で眼前に持ってきた男子を、怖がらないばかりか蘊蓄で追い返す、変人な生徒だった。
爬虫類や昆虫の話は以上で、ペットとして有名な動物はどうだったか。
普通「動物が好き」というのは、こっちのことを指すだろう。
こちらには、愛好家の方々の数が一気に増え、その熱も、公的な保護の力もいや増しているだろうと思う。
「犬派?猫派?」と聞かれれば私は断然猫派だ。
私は何故か昔から犬に好かれない。めっちゃ吠えられる。3歳の時に茶色のミニチュアダックスに手首を噛まれたのが、私を猫派にした契機だろう。
仲良くなろうにも彼らは人間の纏う警戒の空気を敏感に察するので、結局お互いに歩み寄れない。
とはいえ、可愛いものは可愛い。
クリクリの目、狼の名残り濃い野生感溢れる体躯、飼い主に忠義を尽くす信念、物覚えの良さ。犬が苦手な私も、その魅力は十分に理解できる。
言わずもがな、猫も可愛い。
放っておいても独立独歩する馴れ合わない感、たまに繰り出されるからこそ破壊力のあるデレ、しなやかで女性的な身体つき、などなど。
鳥も、愛好家からは堪らない魅力を持つ生き物だ。
同じように、兎や、熱帯魚や、亀や、ハムスターも。
私は動物が好きだ。
しかし、飼えない。
生き物を飼うとは、愛でて家族同然に育んでいくこと、と理解している。
その共通認識があるからこそ、様々な反対意見こそあれ、動物に着せる服や、より健康的に暮らすためのエサなどが何の疑問もなく店に並べられるのだ。(本来、野生の彼らに必要ないのに)。
ペットとして人気が高いものの多くは、古くから人間の手によって飼いやすいよう、様々な特性を持つ個体を掛け合わせ、その中で更に良いものを掛け合わせ、とやって、現在の様々な種類のペットたちが生まれてきたと言えると思う。(もちろん、ほぼ原種に近いものが愛好される場合もある)。
だから現在の飼いやすく賢く見目麗しいペット達は多くの血の犠牲の上に成り立っているとか、悪質なブローカーに金を渡さないためにペットショップではなく保健所で動物を引き取ろうとか、そういうことを言いたい訳じゃない。
動物が好き。
その見た目が?性格が?愛着が?野性味が?ちょっとした仕草が?
人それぞれだと思う。様々な理由があると思う。
そのうちの1つに、「食べている姿が好き(捕食している瞬間が好き)」「弱っている姿が好き」という、私のような、ある種サイコで悪趣味(と捉えることも出来る)趣味の人間も居るのだ。
私は闘犬・闘鶏・闘魚・闘牛が好きだ。文化だから、伝統だから、それを生業にしている人が居るから、という事を抜きにして、脊髄反射で好きだ。シマウマを追いかけるライオンが、ライオンに追いかけられるシマウマが好きだ。バッタを二つ折りにして食べるカミキリをオカズにご飯を食べられる。暫く餌を控えると、虫かごの中で弱々しくもギラついた本能で餌を求める、揺れる触覚が好きだ。
私が動物が好きでも飼えない理由は、そこにある。
単純に、私の嗜好のまま動物を飼えば、いつか最終的に殺してしまうだろうから。
売られている彼らは、助けを待つ彼らは、もっと優しくて健全に動物が好きな人の下に行くべきだから。
子供の頃、アリの行列を潰した経験を一度も持たない大人は何人居るのだろう。
大人になって、同じことが非難される理由は、どこから来たのだろう。
さて先程、サイコで悪趣味と書いたが、これを人間に置き換えるとどうだろうか。
「女の子/男の子が食事している瞬間が好き」「病気などで弱っている彼女/彼氏にキュンとくる」というのは、相手が二次元でも三次元でも同意してくれる(似たような趣味嗜好を好む)人は多いと思う。これが、犬猫になると何故ダメなのか、と声を荒げるつもりはない。ダメなものはダメだし、どうしても発散したいなら紙の上で作品として昇華させたものを見ればいい。
さてさて、動物の問題といえば色々あるが、薬品や化粧品などの開発に使われる実験動物、または悪質なブローカーなどが挙げられる。
それらが報道されることもあるし、されないことが問題だとされていることもあるだろう。
ある時、妻が夫の酒にメチルアルコールを混ぜて殺した、というニュースを見た。
何故バレなかったのか、致死量はどのくらいなのか、死に至るまで何分掛かるのか、まで、疑問点は全て解消される素晴らしいニュースだった。
……殺人の方法が、情報として、夕方のニュースで大体的に宣伝されている、という見方も出来る。
人は、他の動物(人間も含む)を、いかにして苦しめ、殺し、結果として制圧してきたか。
現在、その頂点に、私達が居ると考えることも出来る。
陰惨でうんざりする考えだが、私はそう言うのが好きだ。
そういう人間が居ても、良いだろう。
それとも、反乱分子的思考回路を持つ危険な存在として、イレギュラーとして、
排除されてしまうだろうか。
人間は家畜として動物と暮らすうち、愛玩目的でも動物を扱うようになり、
より飼いやすく、丈夫で、美しく、賢く、強く、従順で、大人しく、よく言うことを聞く品種になるよう、掛け合わせてきた。そうでないものを切り捨てる形で。より良いものが残るように。
人間も動物である。「より丈夫で、美しく、賢く、強く、従順で、大人しく、よく言うことを聞く」人?
なんだか嫌な予感がするのは、私がそうでない人だからだろうか。
なんて。
暫くぶりに更新すると、ボリューミーになってしまった。
それでは、今日もおやすみ。