私の寿命をのばした いくつかのもの。

 

わたしのじゅみょうをのばしたものが、みっつある。

 

1つは、従妹と、素晴らしいゆうじんたち。

 

長い間連絡をとっていなくても、

なんにも気にならない、

かならずまた会えば、もとのように話せると、

わくわくするような時間がすごせると確信させてくれる友人たち。

 

家族のように過ごしてきたいとこ。

きみは、あきれるだろうか。

泣くだろうか。

ただ、さみしそうな顔をするだけだろうか。

でも、それだけでも。

きみがいるだけで、私はつなぎとめられている。

 

2つは、芸人さん。

 

ゾンビのようになりながら、

強迫観念が如く液晶画面から娯楽をむさぼり、

どうにか意識を逸らそうと、

我に返るまいと必死だった、あの夜に。

落ち着きたくなくて、ずっと眠っていなくて、

しらじらする空にいっそう嫌悪感を募らせていた時に。

 

あなたたちがいた。

笑うことなんか一瞬の効果だと思っていた。

すべてをわすれて笑うことなんかないと、

よしんばあったとしても、意味がないと思っていた。

 

馬鹿みたいかもしれない。

ふざけているかもしれない。

その空間に、私は救われた。

数日ぶりに、お風呂にだって入れた。

思いだしてはクスクスと笑っていた。

 

「幸せな時間」をくれた。

それはなによりの薬効となった。

 

3っつに、有名無名のブログたち。

 

どん底の時に、同じ境遇の人を。

怒りを覚える時に、本当に世界を変えようとする人を。

 

ネットの海原から本当の人をみつけるのは手間だけれども、

みつけたときの喜びはそれに勝って余りある。

わたしはあなたたちから多くの物を受け取った。

そしていまでも、あなたたちの言葉が私を支えるときがある。

 

だから、言葉とは、

それを紡ぎ出すひとというものは、

本当に宝であり、魔法である。

その力が強大だからこそ、

私は恐れもするが、愛してもいる。

わたしが「ひと」であることを恨めずにいるのは、

それを気づかせてくれたあなたたちを忘れられないから。

 

 

以上の三つは、私を大いに励ました。

いくじのなさからロープを注文しあぐねている私を、

それから一時的にでも注意をそらし、

なんでもないようなことだとおもわせてくれた。

また、時に酷い気持ちを見つめることも、

それもまた良しと思わせてくれた。

 

わたしはまだまだ死に近いところに居る人間だけれども、

感謝をしたくなってしまったので、ここに書き記す。

 

だからどう、というわけでなく、

そこにあるのは、ただただこれらが、意図せず(そこにあるだけで)

わたしを救った【寿命をのばした】ということだけである。

 

出会えたことに感謝。

 

それでは、今日もおやすみ。

 

 

 

 

 

一人称視点のゲーム

こんにちは。

まだ生きています。

 

さて。

最近新しくハマったものがありまして。

それがかの有名な「ゲーム実況」なるものなのですが。

 

「すべてを忘れるぐらい大好きなもの」があるというのは、

精神衛生上本当に有効ですね。

一番良いのは、趣味をそんな医薬用モルヒネみたいな使い方をしなくていい、

ただ純粋に「好きなもの」として楽しめる世界であることですが。

抑える必要がある痛みがあるから、鎮痛剤が必要なわけで。
かといって、痛みを忘れられるもの(この場合は趣味)があれば何でも良いか、というと

そうではなく、鎮静剤としての趣味は本来の用途ではない、ということを

胸に留めておかなくてはなりません。

鎮静剤としての趣味は、あくまで対症療法であり、一種の逃避とも言えます。

それでも、それでその人が今日一日生きられるなら、それに越したことはありません。

ただ、趣味の鎮静剤的一面を忘れ、これこそ万能薬なのだと、依存し、

崇拝してしまうと、鎮静剤は麻薬に変わり、毒になります。

趣味を提供するものとの需要供給が、支配被支配の関係にならないように。

 

とはいえ、大好きな趣味があることは、確実に寿命を延ばしますね。

「狭く深く」派なので、既存の趣味に領域が隣接しないジャンルに

ハマるのは、本当に珍しいことです。

 

私は、ゲームは苦手です。

嫌い、というわけではなく、

単にPSの無さと、元来の飽き性のせいで、まともに続かないので。

ニュースーパーマリオブラザーズでさえ、一面で苦労しました。

また、育成ゲームは、歩みの遅さに放り投げてしまいますし、

RPGは、ストーリーを一度味わうと満足してしまうので、弱いままです。

アクションゲームは、もう純粋に才能が無いです。

唯一最後までまともにできるのは、脱出ゲームや謎解きゲームでしょうか。

それも、攻略ページ頼りだったりするので、

とてもじゃないですが得意とは言えません。

 

しかし、そんな私でも、人がゲームをするのを見るのは好きでした。

小さいとき、近くの公園で、ゲームボーイアドバンスをしている男の子と

ポケモンを食い入るように見ていたことを覚えています。

当時にしては珍しく、PS4を持っている女の子の家に上がっては、

サルゲッチュをクーラーの効いた部屋で眺めていました。

やっぱり、なにか上手な人を見ているのは、それだけで楽しいものです。

 

ところで。

私は乗り物酔いが酷いです。

車やバスはもちろん、ブランコや回転椅子でも酔います。

飛行機や船なんか乗った日には、大変です。

もちろん、良い止めを飲めば阻止されますが、根本的解決にはなりません。

どうやら、三半規管が弱いようです。

 

そして、当然のようにゲーム画面でも酔います。

はじめて画面酔いをしたのは、親戚のPSPを借りて牧場物語をしていたときでした。

しかし、マリオやスマブラは大丈夫です。

一人称視点のゲームが出来ないことに気が付いたのは、しばらくたってからでした。

 

多くの実況者さんは、一人称三人称の区別なく、ゲームをしています。

特に一人称のゲームは、臨場感が味わえるため、人気なのかも。

 

 

・halo

L4D2

バイオハザード

CoD

・零

・モンハン

・マイクラ

・WOt

・OUTRAST

・スタンリーパラブル

 

有名どころでいくと、こんな感じ。

ラインナップだけで、詳しい人なら私が誰を見てるかわかるんじゃないだろうか。

ゲーム見るのは好きだし、好きな実況者さんも居るんだけどね……。

 

見れないんだよね……!

 

酔い止め片手に見てもいいけど、そんな根性はないし、

何より酔い止めの口渇感で、新たに気持ち悪くなるからね。

 

ああ、2Dのゲームがもっとはやりますように。

 

そう考えると、この人生も、一人称のゲームなのかも、なんて。

 

いつも以上に支離滅裂な文章になってしまった。

 

それじゃ、今日もおやすみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お礼と愛のかたち。

めっちゃひさしぶりだ。

生きてるけど。

 

自分の中に巣食う自己承認欲求お化けの封印を解かないため、

twitterやらfacebookやらその他有名なSNSはほとんどやっていない。

あれらはもう、「つぶやく」「日記を書く」「宣伝を打つ」以上の

意味を持ってしまって、本来の使い方は抹殺されていると感じる。

何より、言いたいことを言った結果貶められる可能性が上がる世界なんて、

現実と一緒だ。

それなら、一人でノートに書きなぐる方がよっぽどマシだろう。

それに、承認欲求お化けは、最悪の場合私を社会的・金銭的に殺す。

あれは、餓鬼だ。

飢えているのだ。

空腹のまま、飢餓の焦燥感のまま暴れまわり、なお足りないと叫び散らし、

すべてをぶち壊してしまう。

誰にでもある自己承認欲求だが、エスカレートしたそれはもはや妖怪だ。

夜に闇が失われてしばらく、心に巣食う様になった妖怪。

悪魔、といった方が適切かもしれない。

 

 

さて。

このブログを書いている、ということは、

それなりに精神が落ち込んでいる、という意味だ。

色々と言いたいことはあるけれど、今日は「お礼」について。

 

「ありがとう」ってどういう時に言いますか?

たいていの人が、「助けてもらったとき」じゃないかな、と思っています。

でも、それって

 

「○○さん、これ、頼んでも良い?」

「あぁ、もちろん」

   ↓

「この前のあれ、やっておいたよ」

「助かりました、ありがとうございます」

 

っていう流れが、自然と言うか、「ありがとう」という言葉に対して

適切なプロセスではありませんか?

つまり、「ありがとう」へのアプローチは、誰かからではなく、

自分から、何か頼みごとを持ちかける必要がある、という意味です。

 

というのも。

「なんで『ありがとう』って一言言わないの!」

と言われることが多いのです。

(言ってくれるだけ有り難いとか、叱られるうちが花、という話は、また今度)

それに対して「???」と思うのです。

 

「だって、頼んでないし」と。

 

言ってもないのにやってくれたのは、とても嬉しい。

でも、それは、頼んだことではないから、ボランティアだろう。

ボランティアをしておいて、「お礼は?」と言われても、と

ついつい、思ってしまうのです。

 

せめて、頼んでいなかったけれど気をまわしてやってくれた場合、その人は、

「アレ、やっておいたよ」と言ってほしい。

じゃないと、私は本当にわからない。

なんなら、私がやらずに、誰かにやってもらうことが、全人類共通の当然なのだと

勘違いしてしまう。

この方面のアンテナが、自分自身抜群に弱いことは自覚している。

ので、ハッキリ教えてほしい。

 

「やったことを『やったよ』なんて伝えるのは、なんか威張っているようで、自慢しているようで、恥ずかしい」と思うかもしれない。

そんな感じで、どうしても『やっておいたよ』の報告がしたくない人は、

お礼を期待しないでほしい。

少なくとも、私からは。

だって、いつのまにかやるべきことが、誰かの手によって終わってたら、

「誰だろう?ラッキー」ぐらいにしか捉えられないのだ。

(つくづく、怠惰と傲慢の権化だと思う)

そうして、時間がたってから「あの時、実はね……」と伝えられて、

はじめて申し訳なさと有り難さでパニックになりながら「ありがとう」と

告げられるのだから。

 

私は、頼んでないことをしてくれた人に対して、どう反応していいかわからない。

反応するタイミングもわからない。

そもそも気が付かないから反応できない。

 

塾の送り迎えも、

服を一緒に買いに行くのも、

慣れない書類を書くのも、

苦手な日程調整の管理も、

部屋の掃除も、

朝起こすのも、

 

私が、ここに産まれているのも。

 

私は何も頼んでない。

でも、いつのまにか、あなたがしてくれていたのだ。

「あなたのため」

「将来のため」

「常識を教えるため」

 

ああそうさ、私のために働いてくれてありがとう。

そのおかげで、私はその間、サボることができた。

 

どうして怒っているんだ?

「私だって暇じゃないのに、時間をとって助けてあげたの」。

それは、わざわざどうも。

でも、したくなかったら、しなければいいのに。

なんてったって、私はあなたに頼んでいない。

私の人生は、私のものだ。

あなたが手伝わなくて、私が困ったって、それは、私が困るだけだ。

あなたの責任ではない。

その困りから私が学ぶことも多かろう。

何も学ばないかもしれないが、それもまた私の人生だ。

あなたがどうこうできるものではないし、して良いと思っているならやめた方が良い。

 

「ありがとう」を言いたくない、と言っているわけではない。

「ありがとう」は、私が頼んだことをあなたが成し遂げ、それを知らせてくれた時に初めて発生するものだ、と言っているのだ。

 

「誰に育ててもらったと思ってるのよ」

「誰のためにお金を払ってると思ってるのよ」

 

なんて。

それって、私にどうしてほしいの?

 

まさか、「ありがとう」が欲しい訳じゃないでしょ。

嘘をつかないでよ。

 

ああ、『ごめんなさい』

 

それじゃ、今日もおやすみ。

 

 

 

 

 

動物が好きってどういうこと?

怠惰な今までの例に漏れず三日坊主宜しくしばらく更新をサボっていたら、

その間に閲覧数が凄い事になっている日があって戦慄。

年代的には悟り世代のはずだがネットには疎いので、

「何かあったんだろうなぁ」というふんわりした予想しか立てられない。

最近の20代が全員パソコンの扱いに長けていると思うなよ。

それは「日本人ならお正月に晴れ着を着て羽子板をするに違いない」

「マックが嫌いなアメリカ人が居るわけない」「女の子はみんなスイーツが好き」ぐらいのテンプレートで班を押された先入観にすぎない。

 

でも、もしかしたら私たちは、自動的に脳内で人物や出来事をカテゴリに分けて(つまり似た者同士を集めて)ある程度個々についての判断を簡略化する事によって、思考の効率化、省エネ化を図っているのかも知れない。

それは確かに効率的だが、全員が全員効率を第一に判断・行動すると、当然のごとくイレギュラーに対応できない。放って置かれた、或いは適切に対処できなかったイレギュラーはそして、存在自体が問題として扱われ、抑圧・淘汰される。

だから効率を考える人と個々の事情に対処する人は分けて扱われるべきだなぁ、と思うが、この辺の事を考えていたら1日では終わらないので今日はここまでにする。

 

本当は、もっと別のことを書く予定だった。

それは、「動物が好きって、どういうこと?」というもの。

私は昔から今まで虫が好きで、幼稚園の年少から20代の現在に至るまで、コウロギやバッタやスピードのない蝶なら手で捕まえられる。カエルだって平気で触る。花の女子大生()だがゴキブリに悲鳴をあげるくらいなら殺虫剤を振りかける。(Gに関してはもっと凄い武勇伝をお持ちの方がいっぱい居るだろう。私の限界はティッシュ越しだ)

 

針やら毒やらがない生き物なら、見た目が多少グロテスクでも、多分全然触れ合える自信がある。蛇もトカゲも何時間でも観察できるし、出来るなら触っていたい。動物園では小型のワニを抱っこする機会に恵まれた。怖かったがヒンヤリとして気持ちよかった。小学校の時にはゴマダラ(?)カミキリを、驚かせる目的で眼前に持ってきた男子を、怖がらないばかりか蘊蓄で追い返す、変人な生徒だった。

 

爬虫類や昆虫の話は以上で、ペットとして有名な動物はどうだったか。

普通「動物が好き」というのは、こっちのことを指すだろう。

こちらには、愛好家の方々の数が一気に増え、その熱も、公的な保護の力もいや増しているだろうと思う。

「犬派?猫派?」と聞かれれば私は断然猫派だ。

私は何故か昔から犬に好かれない。めっちゃ吠えられる。3歳の時に茶色のミニチュアダックスに手首を噛まれたのが、私を猫派にした契機だろう。

仲良くなろうにも彼らは人間の纏う警戒の空気を敏感に察するので、結局お互いに歩み寄れない。

とはいえ、可愛いものは可愛い。

クリクリの目、狼の名残り濃い野生感溢れる体躯、飼い主に忠義を尽くす信念、物覚えの良さ。犬が苦手な私も、その魅力は十分に理解できる。

言わずもがな、猫も可愛い。

放っておいても独立独歩する馴れ合わない感、たまに繰り出されるからこそ破壊力のあるデレ、しなやかで女性的な身体つき、などなど。

鳥も、愛好家からは堪らない魅力を持つ生き物だ。

同じように、兎や、熱帯魚や、亀や、ハムスターも。

私は動物が好きだ。

 

しかし、飼えない。

生き物を飼うとは、愛でて家族同然に育んでいくこと、と理解している。

その共通認識があるからこそ、様々な反対意見こそあれ、動物に着せる服や、より健康的に暮らすためのエサなどが何の疑問もなく店に並べられるのだ。(本来、野生の彼らに必要ないのに)。

ペットとして人気が高いものの多くは、古くから人間の手によって飼いやすいよう、様々な特性を持つ個体を掛け合わせ、その中で更に良いものを掛け合わせ、とやって、現在の様々な種類のペットたちが生まれてきたと言えると思う。(もちろん、ほぼ原種に近いものが愛好される場合もある)。

だから現在の飼いやすく賢く見目麗しいペット達は多くの血の犠牲の上に成り立っているとか、悪質なブローカーに金を渡さないためにペットショップではなく保健所で動物を引き取ろうとか、そういうことを言いたい訳じゃない。

 

動物が好き。

その見た目が?性格が?愛着が?野性味が?ちょっとした仕草が?

人それぞれだと思う。様々な理由があると思う。

そのうちの1つに、「食べている姿が好き(捕食している瞬間が好き)」「弱っている姿が好き」という、私のような、ある種サイコで悪趣味(と捉えることも出来る)趣味の人間も居るのだ。

私は闘犬・闘鶏・闘魚・闘牛が好きだ。文化だから、伝統だから、それを生業にしている人が居るから、という事を抜きにして、脊髄反射で好きだ。シマウマを追いかけるライオンが、ライオンに追いかけられるシマウマが好きだ。バッタを二つ折りにして食べるカミキリをオカズにご飯を食べられる。暫く餌を控えると、虫かごの中で弱々しくもギラついた本能で餌を求める、揺れる触覚が好きだ。

 

私が動物が好きでも飼えない理由は、そこにある。

単純に、私の嗜好のまま動物を飼えば、いつか最終的に殺してしまうだろうから。

売られている彼らは、助けを待つ彼らは、もっと優しくて健全に動物が好きな人の下に行くべきだから。

 

子供の頃、アリの行列を潰した経験を一度も持たない大人は何人居るのだろう。

大人になって、同じことが非難される理由は、どこから来たのだろう。

 

さて先程、サイコで悪趣味と書いたが、これを人間に置き換えるとどうだろうか。

「女の子/男の子が食事している瞬間が好き」「病気などで弱っている彼女/彼氏にキュンとくる」というのは、相手が二次元でも三次元でも同意してくれる(似たような趣味嗜好を好む)人は多いと思う。これが、犬猫になると何故ダメなのか、と声を荒げるつもりはない。ダメなものはダメだし、どうしても発散したいなら紙の上で作品として昇華させたものを見ればいい。

 

さてさて、動物の問題といえば色々あるが、薬品や化粧品などの開発に使われる実験動物、または悪質なブローカーなどが挙げられる。

それらが報道されることもあるし、されないことが問題だとされていることもあるだろう。

ある時、妻が夫の酒にメチルアルコールを混ぜて殺した、というニュースを見た。

何故バレなかったのか、致死量はどのくらいなのか、死に至るまで何分掛かるのか、まで、疑問点は全て解消される素晴らしいニュースだった。

……殺人の方法が、情報として、夕方のニュースで大体的に宣伝されている、という見方も出来る。

人は、他の動物(人間も含む)を、いかにして苦しめ、殺し、結果として制圧してきたか。

現在、その頂点に、私達が居ると考えることも出来る。

陰惨でうんざりする考えだが、私はそう言うのが好きだ。

そういう人間が居ても、良いだろう。

それとも、反乱分子的思考回路を持つ危険な存在として、イレギュラーとして、

排除されてしまうだろうか。

 

人間は家畜として動物と暮らすうち、愛玩目的でも動物を扱うようになり、

より飼いやすく、丈夫で、美しく、賢く、強く、従順で、大人しく、よく言うことを聞く品種になるよう、掛け合わせてきた。そうでないものを切り捨てる形で。より良いものが残るように。

人間も動物である。「より丈夫で、美しく、賢く、強く、従順で、大人しく、よく言うことを聞く」人?

なんだか嫌な予感がするのは、私がそうでない人だからだろうか。

なんて。

 

暫くぶりに更新すると、ボリューミーになってしまった。

それでは、今日もおやすみ。

 

働きたくないっつっても色々あるんだよという言い分(笑)

外へ出てお金を稼ぎたくない。

じゃあ、在宅で?確かに今はネットがあるし、出来ることは多い。

 

ネット起業とか。

しかし私は売るような物を持っていないし、

物をうると言うのは今の所誰かを獲物として、金ヅルとして見なくてはならない、

ということだ。

何より、経営センスがない。それを克服するためにメンターやセミナーに通っていては、やっぱり誰かの獲物になって、私は乾く一方だ。

 

アフィリエイト、株、FXとか。

これはただ単に私に才能がない。

正直勉強しても本当に意味がわからない。

そういうジャンルって、誰にでもあると思う。

文系の人からして物理が意味不明とか、

理系の人が英語意味わからんとか。

それと同様に、意味がわからない。

 

ハンドメイドのもの、アート、ライターとして生きるとか。

これは良い。好きなものに純粋に携わっている。

これの問題点は、自分で営業し、場合によっては売れない、と言うこと。

自分の作品、自分の思想を反映したものは、自分の子供も同然。

自分の子供が評価されないということは、例えそれが幻想であっても、

それを創り出して自分に価値がないという自己評価に直結する。

何が言いたいかって、儲けられない時期のメンタル的ダメージが大きすぎるのだ。

私は傷つきたくない。

わがままかな?でも、事実だ。

それに自分の内なるものから形あるものを引き摺り出すということは、

内なるものが枯れてしまった時、そこからは何も湧き上がらないということ。

アーティストにとって、これは比喩表現でなく致命的だ。

 

そういうわけで、私は凡そ在宅らしい仕事もしたくない。

やっぱり何処かの山の中で、小さな畑を耕して生きるのが一番ダメージが少ない気がする。

そうするにしても、山の土地を買う手続きはどうするとか、ろくに知識のない女手ひとつでどうするのかとか、考えるべきことは一杯ある。

面倒だ。

面倒なことはしたくない。

 

とすると、適当な組織に入って、これこれをして、と頼まれ、

順当にこなしていくのが、一番楽かもしれない。

が、その就職というものをしたくないが為に悩んでいるのだ。

何をするにしても、楽をするための苦労なんざもう沢山だ。

 

いっそ、リュックに全てを詰め込んで旅に出ようか、とも思うが、

私は知らない人に会うのが苦手だ。挨拶すらままならない。

出来れば見知った人に囲まれ、歓迎を受けて暮らしていたい。

それに何より、肩まで浸かれるお風呂とふかふかの布団の無い暮らしだと、

個人的に人生のモチベーションがもの凄く下がる。

また、男性と違う苦労も多いだろう。

なんで2つも性が存在するのか。

この辺りを考えたら主旨が変わりそうなので、ここまでにして、

バックパッカーもダメそうだという結論に至る。

 

私はわがままで狭量で、弱い癖に頑固で見栄っ張りだ。

社会に役立つ人間になれそうもないし、子孫を残す為にパートナーを得る能力もないし、誰かに恩返しせねばという気もない。

 

やっぱり死ぬのが良いんじゃないかな。

なんて考えてランチパックを食べています。

 

それでは、今日もおやすみ。

「今ならもれなくお買い得!」な世界の苦しさ。

私はお金が苦手です。

こんな事を言ったらぶっころされそうですが、

本当の事なので仕方ないです。

 

私が何かを買うとき、

特に、生活必需品ではない何かを買うとき、

些細な違和感を覚えます。

それは黙って見過ごせる程度のものですが、

とにかく変な感じがするのです。

 

私たちは何処に行っても広告を目にします。

チラシだけではありません。

バナーやCMや誰かの投稿も広告です。

宣伝というのは、ひとつのビジネスなので、

どこの会社も、自分の商品を買って欲しいのです。

当たり前ですが。

なんで自分の商品を買って欲しいかと言うと、

儲かった方が自分が潤うからです。

当たり前ですが。

 

「俺が潤う為に俺以外の奴は乾け(=お金を払え)」というのが

透けて見える感じ。

透けて見える悪意は邪悪です。

「俺はお金が欲しいぜ!」とストレートに言っている人は

表立った参道はされないかも知れませんが、

一種の清々しさを感じます。

 

私はお金が苦手です。

お金を稼ぐのも苦手です。

でも、資本主義の世界では、お金をいかに効率よく稼ぐか

もしくはいかに気前よく払うかで、重んじられます。

 

よって、重んじられない私は寂しくて、

悲しい気持ちになるのです。

 

働く事が苦手です。

誰かを獲物にするからです。

アフィリエイトでも株でもFXでもバイナリーオプションでもフリーマーケットでも同じです。

それを利用するのも苦手です。

私が獲物になるからです。

 

商品の宣伝でも、ビジネスの宣伝でも、

「私は獲物にされている」というのを感じます。

それがとても怖いのです。

それがとても嫌なのです。

 

じゃあどうするつもりなの?

山に籠って自給自足でもするつもり?

 

誰も獲物にせず、誰にも獲物にされず。

心地よく暮らすことが出来たら、きっとここは天国になる。

そう思うのですが。

思うだけです。

動かない動けない私を詰る声が聞こえる気がして、

今日も蹲ったままで居ます。

 

私はどんどん乾いていきます。

 

それでは、今日もおやすみ。

テーマを絞って滴り落ちる何かについて。

よく見かけるのが

「アクセスアップのためにブログテーマを絞りましょう」

という話。

ターゲットを明確にして、その人たちが知りたいことをピンポイントに書いていきましょう。

 

ふうん、大変なんだなぁ。

というわけで、私は早々に諦めています。

いや、ビジネスでブログやってる人なら其れで良いと思うんですけど。

日記って、その人の包括的なところを、日常の一部から感じとるってことじゃないですか。

 

仮に、私が誰かをターゲットに選択的に記事を書いていくことにしたとして、

何が書けるだろうか、ということを考えてみます。

 

・鬱の大学生が頑張るブログ

腐女子のサブカルを語るブログ

・成人超えて発達障害が発覚したけど生きてるブログ

・読んだ本の要約とレヴューをまとめたブログ

・占い好きJDがスピリチュアルをディスるブログ

・フリマサイトの使用感とおススメ出品をまとめたブログ

 

こんな感じ?

ロクなモンねぇな(笑)

 

どっちにしろ、「それしか書けない」って書いてる側がつまんないと思うんですよね。

書いてる側がつまんない文章は読んでもつまらない。

一つのテーマで延々と楽しくブログが書ける人は凄いです。もう研究者の域じゃないかな。

 

一つのテーマを扱うにあたって個人的に何が嫌かって、

ホンモノじゃなきゃいけない、という感覚がついて回ることです。

上記の例なら、

「学校行けてるやつは鬱じゃない」とか

「グレーゾーンは程度が軽いから、そんなお前が代表者ヅラするな」とか

“本質を分かってないあなたが何を言っているのやら”って感じが

別に誰かに言われたわけじゃないですが、脳内でツッコミが入るのが面倒くさい。

面倒なのは嫌だ。

私は何も代表しない。

 

でも、実際救いを求めてネットをさまよっている時に、

(ネットに救いを求めるなんて間違ってる。馬鹿じゃねぇの?というツッコミは無視します)

これは!と思うサイトを見つけたとしても、

「あくまで一個人の意見です。万人に当てはまるとは考えないでください」的な注意書きが書いてあると、正解を求めていた側からして、「セコイ言いかたしやがって」と思わなくもない。

 

あーあ。

こんな小さなことまで考えなくていいのに。

分かっちゃいるけどやめられない。ので、

持ち味ってことでここはひとつ。

 

でも。

敢えてターゲットを設定するなら、

「自殺しそうな20代の脳内を晒すので、似たような境遇を持つ人やその関係者に共感や理解を深めてもらうブログ」

ってなるかな。

 

私はホンモノじゃないし、

私は絶対じゃないし、

私は代表じゃない。けど、

誰かが読んでくれるって、理屈抜きに嬉しいものだから。

 

それでは、今日もおやすみ。