心の脆さと感じる事実。

 

心が痛い。

陳腐な言葉だけど、事実だと思う。

 

恋をしたとか、良心が痛むとか、そういうことじゃなくて。

酷い罵詈雑言を受けたとか、心配でたまらない人がいるとかでもなくて。

 

何気ない、本当に少しだけ強い言葉で、脆い心にヒビが入るのを感じる。

その言葉が私に向いていなくても。

向いていたらなおさら。

 

それが、弱さだとか、甘えだとか、自尊感情を傷つけられたからとか、

自意識過剰だとか、そう言うこともできる。

それか、まだ若いからだとか、うつ症状のせいだとか、HSPの傾向があるからとか、

女だからとか(!)、他にももっと怖いことはいっぱいあるのに、そんなことでどうするとか。

 

自分で自分の心の(メンタルの、って言ってしまうと軽くなりそうで嫌だな)弱さに

気がついているとき、様々な理由が世間の顔をして聞こえてくる。

と同時に弱さそのものに対する罪悪感と怒りと自己憐憫がぐわっと盛り上がる。

「病み期」と言ってしまうのは憚れるくらい、日常的で頻繁だ。

 

嫌だな、馬鹿みたいに簡単に打ち砕かれるのは。

嫌だな、哀れを誘っていると思われるのは。

嫌だな、強くなるために戦って傷つくのは。

 

自然界をみれば共存共栄の部分はあれ、同種の中でも異種間でも、より強靭で柔軟なものが種を残すために選ばれて尊ばれ、生き残っている。

振り返って私を見たら、筋力も頭脳も、精神も器用さも、人間の器のようなものも、

あらかた武器になりそうなものは殆どない。

多分、野生動物なら真っ先に淘汰されていたと思う。

 

私は、人間の世界で生き延びてしまった、のではないかと思っても、不自然じゃないだろう。

 

なんて、変な話だ。

普通においしいご飯食べて友人が居て、住む家と家族があり、明日食えるだけの財産もある。

なのに、心の脆さと言うだけで、思考はここまで伸びていく。

勝手に雷に打たれたような不幸せを感じて、自分がいかに要らない子なのかをアメーバのように探し回る。

 

もっと不幸な人はたくさんいるぞ!、と声が聞こえる。

たぶん、幸不幸(に限らずすべてのこと)は、その人の感じたことが事実だ。

だからその人が感じたことがすべて。

 

あーあ。

 

願わくば、「そんなときでも幸せになる思考術!」とかの押し売りをされませんように。

深海に沈んでゆきたいときは、思いのままに潜ってゆけますように。

 

落ち込んでるから、しみったれてるなぁ。

散文的な文章だなぁ。

 

それでは、今日もおやすみ。